黒白



「――――おい、真紅」

 若干田舎と言えるある山奥にある陣内町、そこにある今時珍しい武家屋敷にて。
 屋敷の主である少し赤みがかっている髪をした彼――緋宮 真紅(ヒミヤ シンク)は台所で夕食を作っている時、前触れもなく話しかけられたのでそちらに意識を裂く。それでも手元に集中して食材を切り続けるのは長年の慣れによる技だ。

「何だよ? クロ」
「腹が減った。ツナ缶をよこせ」
「夕食まで辛抱しろ。あと少しなんだからさ」
「嫌だ。吾輩は今腹が減っているんだ。今がいい」
「ふざけてろ生物(ナマモノ)。ダイエットさせるぞ」
「チィ。仕方ない。ならばその煮干をくれ」
「はぁ、仕方がないのはこちらだよ全く」

 足元の生物に掴んでいた煮干を放り投げる。
 生物ことクロはその体系に似合わない軽やかなジャンプで上手にとって食べた。
 緋宮 真紅の悩みにして欠陥。それは生物もとい猫と会話できることではない。だからといってこの世の猫が喋っているわけでもない。猫はどこまで行っても所詮猫は猫。それ以上になるわけでもそれ以下になるわけでも、ましてやそれ以外になるわけでもないため、ニャアとしか鳴けない。
 だが――だからといって人並みの知能がないっわけではない。異常に頭が良い人がいるのと同様に、猫の中にも極稀に人並みもしくは人以上の知能を持つ猫が存在する。
 そんな特殊な猫のニャアという声が普通のニャアであるわけがないのは当然。それでも、いくらそのニャアに意味がこもっているとしてもニャアはニャアでしかなく、一般人にはニャアとしか聞こえない。
 そして、真紅はそのニャアとしか聞こえないはずの音に含まれている意味を聞きとることができる。いや、何もニャアだけに限らない。全ての音に何かしらの意味が含まれているとするならば、彼はすべからくその意味を聞き出し、言葉として聞き取ることが出来てしまうのだ。

 意味を知る。これが真紅の欠陥である。

 試しに先ほどの会話に一般人のフィルターを掛けてみるとこうなる。

「ニャア」
「何だよ? クロ」
「ニャア。ニィイア」
「夕食まで辛抱しろ。あと少しなんだからさ」
「フシュ! ニャニャア、ニィア」
「ふざけてろ生物(ナマモノ)。ダイエットさせるぞ」
「フシ。ニャア」
「はぁ、仕方がないのはこちらだよ全く」

 猫と会話する人、非常に病院行けという光景だ。どの方向から見てもイタイ人にしか見えない。

「ため息ついても幸せは来ないよ」
「シロ……そうなんだけど、そうなだけどさぁ……」

 この家にいる猫の総数は三匹。名前はクロ、シロ、アオである。黒と白はその毛色からつけた非常に安直かつシンプルな名前で、アオにおいては黒白青赤の中で足りないものということでつけられた。他意はない。
 ああ、この場合欠けている赤というのは名前からわかっていると思うが真紅のことだ。ただ、赤が二つもあるというのでバランスが崩れている気がするが、気にしないでもらいたい。
 土鍋の中にえのき茸を入れて蓋をし、さらに煮込むことしばし。その間に大根をおろす。

「もうすぐだな」

 皿に盛られた食材を見る限り、どうやら今夜の夕食は鍋、それも鰤しゃぶのようだ。

「時にシロ」
「ん〜?」
「アオは帰宅済み?」
「うん。さっき炬燵の中に入っていくのを見たよ」

 いつの間にか真紅の頭の上に乗っている猫、シロに問う。この位置はシロの特等席にして定位置、いったい何度この状態で学校に通ったことか。数えるのがバカになるほど繰り返してきたため、学校側もこの状態を黙認している。本来ならバランスが悪くてシロが落ちたりするのだが、今は慣れでそんなことはない。昔はたくさんあった。ただ、慣れていても痛む首は痛む。凝る肩は凝る。故に正直あまりやってもらいたくないのが真紅の本音だ。
 今さらながら疑問に思った人もいるのかもしれないが、ああそうだ。この広い武家屋敷には真紅一人しか住んでいない。理由はそこまで不思議なものではない。真紅の両親が彼のことを気味悪がって父親の転勤に乗じ別のところに移り住んだだけだ。以来この家には彼一人しかいない。
 また仕送りも人一人分の生活費に学費と若干の色を加えた程度しかない。猫三匹、うち一匹は大食いを養うにはどうしても足りない。普通の人の感性ならば猫を切り捨てるのだが、生憎この猫三匹が真紅に残された最後の家族。手放すのは最終手段だ。
 故に真紅は猫三匹を養うためにバイトをしている。もちろん学校側には秘密裏に。理由が猫を養うためでは当然のごとく許されるわけがない。
 まあ彼はバイトのほかに別の仕事もしているが。

「みんな、飯にするぞ」
「おー、すぐ行く」
「アオ、起きろ。飯だぞ」

 炬燵の中で丸くなって気持ちよさそうに寝ている生後半年の子猫、アオを揺する。

「――ふに? ふにゃぁあ……あふっ。にゃに?」
「だから飯だって。ご飯」
「うにうに、あいさー」
「シロもいい加減に降りろ。さすがにうっとうしい」
「うん、わかった」
「む、貴様の夕食は鰤か。それも寒鰤のトロと見た。吾輩の分は当然あるのだろうな?」
「もちろん。でも後でな」

 たとえ相手が猫でも"ただいま"といえば"お帰り"と帰ってくる。それは真紅にとって非常にうれしいことだ。
 何せ家族に捨てられた時の真紅の年齢は10歳。それも事前に言われるまでもなく、学校に行っている間にいなくなられてしまったのだ。
 考えてみるといい。家に帰ると誰もおらず、置き手紙すらない。当時10歳の少年がどうして捨てられたなんて考えられるだろうか。

――たぶん買い物に行っているだけだ。
――きっとすぐ帰ってくるだろう。

 そう考え、いつものように過ごしていた子供がまだ帰ってこない、いつまでも帰ってこないことにどれほど恐怖を感じたのか、想像に難くないはずだ。故に彼は人一倍家族を大切にしている。

「ほら、さっさとその鰤を寄こさんか」
「もう喰ったのか。いつもながら早いな、おい」

 その時からだろう。真紅が泣かなくなり、また同様に笑わなくなったのは。感情という感情を押し殺し、心の底に沈めるようになったのは。

「三切れだけだぞ」
「にゃほー!! うむ、うむ! うまいなこれ!」
「シロもアオもいる?」
「うん、いる」
「…………(コクリ」

 近所の商店街にある八百屋や鮮魚店の人と仲良くするのは食費を抑える秘訣だそうです。何か買う時、いつも色をつけてくれる田舎万歳。
 バイト先が限定されるのは非常にあれだが、それでもやはり過ごしやすい。それは心の器の広さの違いだろう。
 ちなみに、この街にコンビニなんて一件たりともありません。夜はとても星がきれいなところです。川にはいわなやニジマスが住んでおり、クロが良く獲って食べているそうです。

「それにしても、そろそろ正月らしいな……」
「む、そうなのか? なら鯛を所望する。もちろん酒蒸しでなっ」
「お前はまず痩せろ」
「うるさい! 肥るという行為は生物として正しきものなのだ!! 細いことが美徳である貴様ら人間など飢えて死ね!」
「つまりツナ缶はもういらないと「すみませんでした!!」……身代わり早いな」
「食い意地張りすぎだよ〜」
「真紅〜」

――カプリ。

「あー、はいはい」

 膝の上でアオをあやす。この中でアオはもっとも幼く、口数もそれほど多くはない。また年相応に甘えん坊なため、とにかくなでてもらうのが好きだ。

「ふにゃぁ……にゃふっ」
「あ。寝た」

 腹を撫でてやると非常にうれしそうになる。
 シロもいつの間にか定位置である真紅の頭の上に上っていた。心地よさそうにしっぽを振るその様子ははたから見れば非常に和む。和ませる。

「さて、そろそろ寝る支度をしようか……」

 膝の上で心地よさそうに寝ているアオ、寝ているのに頭から落ちそうにないシロをしばらく眺めていた深紅は一旦猫たちを座布団の上に置き、片付けを始める。いくら特殊な猫と話せるからといって真紅の本業は飽く迄学生だ。その前置詞として無許可就労がつくが、それでも学生だ。
 今の生活に慣れているといっても疲れないわけではない。ゲームやテレビに興味はないので夜更かしをするつもりもない。だから早めに寝れるのなら寝ておきたい。
 朝はあや国は新聞配達があるのも理由の一つ。

「なーなー」
「何だ?」
「このタイ焼き食って「いいわけないだろ」――ケチ」
「お前は近ごろ肥りすぎなんだよ」
「そーだよクロ。この前木の上にいたときだって黒の体重で枝が折れたじゃない。忘れたとは言わさないよ?」
「む、むむぅ……仕方ない」
「クロ、お前って奴は…………」

 外では魚を獲っては食べ、鳥を捕まえては食べ、家では惰眠をむさぼり、人の食事をたかり、事あるごとにツナ缶を要求し、そしてやはり寝る。
 そんな生活をして太らない方が不思議だ。真紅は密かにクロの食事のみ野菜の量を増やして嵩を増すといった手を講じているが、効果があるとは見えない。

「クロ。お前ダイエットさせる。拒否権はない。反論は聞くが受け付けない。シロも協力しろ」
「あいあいさー」
「そ、んなアホな……」
「アホはお前だ」

 ごもっとも。
 学校で出された課題はすでに終えており、仕事で使う小道具の手入れも終わっている。することを終えた真紅はもう寝ることにした。





 そんな普段の日常から幾日か過ぎた冬休み直前の日曜日。
 このバカになるほど広い武家屋敷の大掃除をやっていた昼下がり。
 小休憩として今で朝作って老いたお握り、みそ汁に漬物を家族と食べていた時のこと。

 ある事情を知る人以外その存在を知らない携帯が真紅の懐で鳴った。いや、鳴ったというよりも常時マナーモードにしているために震えたというべきだろう。

「――む? なんだ仕事か?」
「さぁ、どうだろう? 私個人としては下らないことであってほしいと思っている」

 クロが言う。"バイト"ではなく"仕事"と。

「あー、もしもし。真紅です。どちらさまでしょうか?」

『――――――』

「へ? 陰陽師? それなんて御伽噺? 私のところはそんなことしていませんよ。番号を間違えたのではないですか?
 ――てこらクロ。それは私のだ。手をつけるな」

『―――――――――……』

「ああ、はい。ではさようなら」

 そんなこと応答をして真紅は携帯片手にため息をついた。背はどういうわけか疲れたサラリーマンのそれに見えてしまう。

「…………仕事か」
「ああ、仕事だ」
「どこからなの?」
「金払いが悪い公共機関に属するお得意先」
「けいさつ……?」
「さぁ? あの人副職しているから何かわからないだろ。 どちらにしても政府関連だけど」

 そしてまた同じ携帯が鳴り、手慣れた手つきで出る。

「もしもし? 現在金に困っていないので下らない依頼だったら蹴りますよ?」

『おーおー、連れないねー。んでもって金に困ると何でもいいから仕事くださいって頼みこむくせになー』

「それはあなただからです。何なら溜めているつけ耳揃えて払ってもらっても良いのですよ? 私のところは他に比べて出費が低いのでつけを払ってもらえたら二十五ぐらいまで問題ないのですから」

『あー、すまん。上には口うるさく言っているんだが、どうしても渋っていてなぁ。 まあいいや。とりあえず仕事内容、聞くか?』

「いいえ。資料を持ってきてください。どうせあなたのことですからあと四、五分のところにいるのでしょう? 二度も説明を受けるのは私も非常に苦痛です」

『クハハハ、そうだな。 OK、首洗って待っていてくれ。すぐにつくからよぉ』

「期待せずに返り討ちにしてあげますよ。凛さん」

『はっ、ほざいてろ真紅』

――ブツッ、ツー、ツー、ツー

「というわけで仕事だ。 凛さんのことだから拒否権は存在していないだろう。 ほら、仕度しろ」
「面倒だー」
「晩飯は成功報酬で豪華だろうな……」
「なぬ!? 刺身盛り合わせ特上だろ!? 貴様ら! さっさと準備せんかゴルァ!!」

 刺身盛り合わせ特上は飽く迄クロの脳内で起こった変換(妄想でも可)です。現在ダイエット中のクロでは脂の乗ったトロなどは望めないためそれはないかと。
 それはともかくとして――

「――フッ、単純だよな……」
「まあクロだし」
「クロだもん……」

 クロですからね。
 真紅も先ほどの電話先の相手である凪宮 凛が来る前に支度を終え無ければならない。できなければ、すごく痛い凪宮のアイアンクローが待っている。

(とりあえず、あの調子からして洒落にならないほど面倒な仕事である確率が高い)

 自室にある隠し棚の中を漁る。棚の中には投擲用の短剣や透明な水の入ったガラスビン、紅い液体の入ったビン等がある。そんな中一際棚の一番下の段にある一振りの刀が存在感を放っていた。

「…………さて――」

 そのような小道具を持てるだけ持った後、壁にかけているコートを羽織る。刀を手に取り、一度抜いて感触を確かめる。

「クロ、シロ、アオ。準備はできたか?」
「こちらはOK。いつでも行ける」
「吾輩も問題ないぞ。むしろアオの方が」
「…………?」

 猫の準備はいかようなものか。そのような疑問は疑問のままで、三匹の猫の格好は一切変わっていない。まあ所詮猫なので気にするほどでもない。

「さて、そろそろ……来た」

 陣内町に似合わない爆音、精悍な雰囲気を壊すには十分すぎるそれは指向性を持ってここ緋宮家に迫ってきている。真紅はそれが近づくに従って赤みがかっている黒髪を上に掻き揚げる。すなわちオールバック。

「いよぉ、待ったか?」
「さぁ? そんなことよりこれはどこまで行くのです?」
「はっ、行けるところまでに決まっているだろうが」
「ですよねー……とにかく安全運転でお願いしますよ。警部殿?」
「事故らなけりゃすべて安全運転なんだよ」

 家の前に土煙を上げて急停止した車、銀に輝くメルセデス・ベンツ300SLクーペ――の違法改造車。おかげで最高時速は260km/hから380km/hに上昇。ニトロブースター搭載、人が車を選ぶのではなく、正しく車が人を選ぶ車であるといえる。普通じゃない人でも国道を運転するのは危険ではなく無謀の極みであるといえよう。

「吾輩これ嫌いなんだよな……仕方がない。これも刺身盛り合わせ特上のため……! 我慢しようではないか」

(誰もそんなこと言っていないんだけどなぁ……まあいいか)

「ほら、さっさと乗れよお前ら。時間がないんだ」
「ん? そんなにもアレな仕事?」
「おお。対処が遅れたら明日からまずい飯を食わなければならないほどな」
「ふーん……つまり個人的な依頼?」
「ああ。その分気持ちいいぐらいイイ仕事だぜ? 金払いも俺がやるんだからもちろんの前にとっても不足はねぇ。文句はないだろ?」
「……貴方方のところで済ませろ。私いなくてもどうにもできるだろう?」
「何言ってんだお前? 喚くことしかしないあいつらを使うよりもお前を使ったほうが簡単に済むんだよ。金さえ払えば後腐れなくな」
「私の予定を考えてくれたことはあるのか?」
「…………あー、細かいことは気にするな」

 豪快に笑う黒髪黒目に黒服とどこのSPと問いただしたくなる男装麗人、凪宮 凛。職業上では"協会"のカウンターアタッカーの一人――



――兼日本警察警視総監相当権限保持者。主に現場で暴れております。
 その割にはスピード違反は日常茶飯事、銃は警察で支給されているものではなく海外から密輸したものを愛用。この人が警官やっていて本当に日本は大丈夫なのかと日々頭といを痛まされる人が大勢いるとか何とか。

 なお、協会とは一般的に言う魔術(陰陽術などもひとくくりにして言っている)の性質、血継遺伝、すなわち代々近親相姦や周りの優秀な人材を組み込むことによって子々孫々が強くなっていくという血による遺伝性質とそこはかとなく人の欲望の一つである所有良くによる一族秘伝を継承する、大概血の繋がりによって形成される魔術結社を取り締まり、監視する機関。
 また巨大な霊的災害や違反した魔術師の取り締まりを行っているのもここである。そう言ったことの取り締まり手段は入札と呼ばれている。もちろん入札を行えば報酬がもらえ、カウンターアタッカーと呼ばれる彼女のような存在の場合はボーナスが支給される。

「それじゃ、行きますぜ旦那?」
「とりあえず資料寄こせ。現場に着くまでにざっと目を通しておきたい」
「そこのダッシュボードの中は言っているから適当に見てくれ」
「了解した」

 凪宮の運転は決して良いとは言えない。むしろ人が乗るべきではないものであるといっても過言ではない。だがしかし、そんなものでも十回も乗ればさすがの人でも慣れが出始める。まあ大概の人はその前にトラウマになって乗ることを拒絶するが。それでも彼女は拒否を認めないが。

「あう〜、揺れる〜」
「…………へくち」
「おうぷっ! なあ真紅よ。吐いていいか?」
「わけないだろ。我慢しろクロ。シロは大丈夫か? 大丈夫じゃなくてもどうしようもないがな」
「な、なんとかね」
「……なあ真紅よ。吾輩とシロでは優しさに明確な温度差がないか?」
「まさか。優しさに温度があると思っているのか?」
「む、それもそうか…………てゴルァ!! 優しさの違いは否定せぬのか!?」
「しないのではない。できないのだよ。事実故にな」
「お主という奴は……」
「ところで、魚肉ソーセージいるか?」
「――あんたって人はぁ!!(誉め言葉です)」

 所詮クロはいつどのような場所であってもクロなのであった。

「にしても…………下らないことやりやがったな」
「それについては同感だ。何が楽しくて人の枠から外れようとするのかねぇ。人は所詮人にしなかれないから人になっているというのに。人であるからといって人より上の位に勝てないということはないというのに。負けるということはすなわち勝つ可能性がそこにあることを近頃のくそガキどもは理解していない」
「全くだ。勝手にそんなことをするのは別に構わないが、こちらに迷惑をかけるな」
「おう、あったら1000発ほど殴っておいてくれ。私の分だ」
「何を言う。あんたもどうせ来るのだろう? 主に自分のストレス発散のために」
「ま、そりゃそうだがな」

 どうでもいいという感じは口には出さず、ただ表情にのみだして真紅は資料をかいつまんで読んで行く。
 真紅がこの"仕事"の類の世界に足を突っ込まされて約三年。この数字は真紅と凪宮の付き合いの年数でもある。なぜなら真紅をこの世界の突っ込待させたのは凪宮なのだから。そして凪宮は真紅に関する情報をほとんど誰にも言っていない。この世界の大衆が知っているのは真紅の通り名と――任務成功率が90%であるという事実のみ。
 ちなみに失敗率の10%は実を言うと途中やめなどではなく、依頼者本人の契約違反によって真紅と凪宮が暴れたせいである。故に、実質的な成功率は100%といったところだ。

「…………"開門"か。成功すれば世界が変わる禁呪……」
「揺れる揺れるー」
「うみゅ……」
「何だそれは? 食えるのか?」
「とりあえず、食っても不味そうなのは間違いないぞ」
「そりゃそうだ」

 車は高速道路を爆走し、ある場所を目指し進む。速度は端から200km/hを指示しているのは見間違いであることを望む。

「…………いつもどおりだな……」
「そうだね……」
「今回こそは違うと期待した吾輩が馬鹿だった……」
「…………くー、すぴー」

 後ろでうるさく鳴り響くサイレンの音。風に乗って微かに聞こえる"そこの車、止まりなさい"というありふれた常套句。もう少し捻りを加えられないのかと日本のまじめな警察官に訴えたい。それから、"止まれ"といって止まるようなら警官に追われるような運転をしないぞ、と心の中で突っ込んでおく。

「あーあー、日曜から仕事熱心なことで。今日ぐらいゆっくりすればいいのによぉ……」

『そこのベンツ! さっさと止まりなさぁい! 速度違反で捕まえますよ!!』

「しっかし、どこのどいつだ? この俺の前で道路交通法を守らないバカは」

 とりあえず、この車以外高速道路でベンツはないのを彼女は理解していない。そんなこともここでは日常茶飯事なのだ。




 そして暴走よろしくニトロ使って後ろの方でうるさくなっていたパトカー(高速道路使用)と別れ、京都府へと到着。それからしばらく移動して現場の近くへと到着した。

「あ、そう言えば出席日数がまずいんだ。凛さん、あとでどうにかしておいて」
「は? 何で俺が? そんなの自業自得だろうが」
「さて、家に帰って大掃除の続きでも――――」
「仕方がねぇな。今後はちゃんと出席するんだぞ」
「ありがとうございます」

 真紅の授業態度、とりあえず良くはない。かといって悪いかと聞かれると首をひねってしまう。そんな中、誰もが認める悪いものは出席日数だ。今回のように凪宮に拉致紛いで連れ去られることも度々あるため、ほぼ毎年足りることはない。

「ところで、凛さん」
「ん? なんだ?」
「"開門"――――禁呪ということは協会が独自に派遣しているのではないか?」
「あー、可能性としちゃあり得る。まあ現場で会ってしまうかもな」


 この世界には表だって存在できないことが多々存在している。その全てを人は理解しているわけではないが、それでも幾つかはその存在を認知し、対抗策を持っている。だが、全ての人がそれを知っているというわけではない。もしも知られたらまずいものであることが多いため、そのほとんどを曖昧に認めさせたりしている。
 そのような、一つの世界にもう一つの世界を形成している存在の一つが彼らの存在する世界だ。一般的に言えば魔術や幽霊、オカルト的な事象が存在する世界。


「ああ、そういや弾がなくなってきたんだ。今度売ってくれないか?」
「了解。暇があれば制作しておく。でき次第伝えるから節約して使え」
「へいへい――と」

――ガゥン!

「すでに片足突っ込んでいるな」

 凪宮が抜き打ちした一般的に悪魔と呼ばれる存在はたった一発の弾丸で死滅した。その弾は解く手段であるから全ての相手に対しこのようなことができるらしい。彼ら悪魔や天使、すなわちこの世界にとっての異質を人間に置き換えてみると、即死性にして絶対死性の弾丸だそうだ。その分作れる人は限られている。

「ああ。この空気からして接続先は魔界だろうな。魔族の方ではなく、悪魔の方の。クロ、死骸は喰っておいてくれ」
「悪魔はあまり好きじゃないんだがな。口当たりがこってりすぎる」
「お前の猫って雑食だから便利だよな。てかこいつら本当に猫か?」
「冠詞に元がつくが、一応生物学上ギリギリ猫だ。その分食費が人一人分はつくぞ?」
「その価値はあると思うぜ?」
「まあ、そうだな。シロ、場の清浄を。転じて正常と成す」
「あいさー」
「にしても悪魔か」

――ガスッ

「こう、見た目的に俗世間で言われる悪魔とは違うよな。そもそも天使にせよ悪魔にせよどちらとも死を運ぶ者だし」
「それでも、人は天使の方を好む……女だからか?」
「かもな。てか悪魔うぜぇ」

 真紅が投げる短剣は寸分違わずこちらを食おうと迫ってくる悪魔の眉間に突き刺さる。彼らの後ろの残る偉業の死骸は全てクロが食っていく。どうやったらあの肉体で、あの口であんなにも食べれるのか疑問が尽きない。

「協会から派遣される術師は……地理的に考えて陰陽道か密教、仏教の者だろうな。ああ、神道という線も捨てがたい」
「もしくは全員か」
「可能性としてそれが一番大きい。規模として、これは並では済まないからな。たく、京都の霊脈と護国の障壁をうまく使いやがって。おかげで濃い」
「へぇ? お前がそんなことを言うなんて珍しいな。で、実際のところどのぐらい濃いんだ?」
「並みで発狂して死ぬ。一流で実力の二割、イカレた超一流でまあ何とか」
「ワォ。後で協会も絞ろう」

 ではこの場で何ともなっていない彼らはイカレた超一流なのであろうか?

 その疑問に対する答えは否である。
 なぜなら彼らはまだここにきて一度たりとも術、魔術などといったことを行使していない。ただ事前に用意した道具を用い、猫(?)たちの力を行使しているだけにしか過ぎない。

 ならばこの場で普通でいられるのは猫たちのおかげなのか?

 その疑問にすら、答えは否だ。
 この場における干渉は人を狂わすことから始まる。だが、凪宮においては既に自分を確固たるものとして持っているため外界からの干渉という干渉に対して全く動じず、己という個を保てている。元猫たちにおいては存在が特殊すぎて狂うことなどありはしない。
 そして真紅は術を無効化するといった特殊体質ですらないが無意味だ。いやそのような"人間"であるとすることすら人類に対する冒涜とするぐらいの異常を保有している。それを自覚した上で普通を保てているため狂うことなどなく――否、最初からこの存在は正常に狂い続けているため狂うことは当たり前なのだ。故に、狂うことなどない。

「で、凛さん。当然のことながら事前に核の場所を調べているんだろうな?」
「あ? あー、忘れてたわ。すまん」
「はぁあ、となると手あたりしだいに動くしかない、か」
「こうなったら協会から来たやつらと会うことを祈るしかねぇな。

 ――――もしくは一掃するか」

「どちらにしても面倒だ」
「はっ、違いねぇ」

 真紅はこの世界でその存在を認知されていない。あくまで凪宮の個人的な請負人、術師だ。まあそうしないといろいろとまずいことが起きるためであるが。

「…………?」
「アオ、どうした?」
「向こう、変な感じがする……」
「OK、捕捉した。凛さん、アオ曰くあちらだそうだ」
「了解。ところでよ、弾持っていねぇか? 意外と数が多くて切れかけている」
「一応家にあるだけ持ってきた。これが正真正銘の最後だ」
「代金は後で一括で」
「つけは溜まっているが、そちらの支払いはいつになる?」
「…………さぁ、行こうか」

 真紅のつける額は全て法外でも払えないほど高いわけでもない。しかしながら真紅はその体質上全ての術、魔術や陰陽術、神道、錬金術といったことが使えない術師以前の問題を抱えているため、ほとんどの人が支払いを渋る。一応凪宮は払っていることには払っているが、こういう弾の代金などは良く渋っている。理由、経費落ちできないから。つまるところ自分の金でなければ払っている。

「…………この感じ、すでに術師がいるみたいだ」
「へぇ。何の?」
「しばし待ってくれ……――神道だな」
「一般的な対処方法だねぇ」

 腰に携えている刀を引き抜く。その刀は異様なことに歯止めの部分からおおよそ指一本分が両刃となっており、また鎬地の部分には溝が掘られている。溝は刃の部分にも伸びており、何かしらの液体が伝って走るようになっている。
 真紅はその溝の部分に持ってきた赤い液体を流した。

「お、本気になったのか?」
「まさか。面倒事が起きているかもしれないからその準備だ。これぐらいならすぐに用意できるからな」
「確かに。"開門"と会っちゃ何が起こっても不思議じゃねぇな。アオを預かっておこうか?」
「ああ、頼む」

 アオは先ほどからずっと寝ている。たとえ辺りに血のにおいが漂っていようと、どのような轟音がとどろいていようと、死んでいるように眠っている。この状況下で最もいる意味がない猫である。

「さて――――お前たちは失せろ。邪魔だ」

 言うと同時に斬りかかる。普通の刀で切ることができない悪魔たちは、普通の方法では死ぬことがない悪魔たちはその刀に掠るだけで消滅していく。きっとあの赤い液体に何かしらの力が秘められていたのだろう。
 真紅が取りこぼした異形は全て凪宮が撃ち殺していく。そこには取りこぼしはなく、正しく全てを葬っていった。

「やはり名乗っていないと効果が薄いな……」
「むしろ名乗らずにこの効果のお前に吃驚」

 彼らの前に存在する悪魔の動きが鈍い――いや動いていない。また真紅が"失せろ"と言った時に弱い悪魔たちは全員塵一つ残さず消滅している。言霊、であろうか。

「そろそろ着く」
「りょーかい。そんじゃ気合い入れて終わらすか」

 凪宮も最後となったマガジンを銃に詰め、懐から長方形に切りそろえられた紙を取り出した。協会と呼ばれる組織に所属する者は全員術師だ。その範疇には当然彼女も当てはまっている。
 だが凪宮は術を補助としてしか見ていない。すなわち戦闘に仕える手札の一つにしか。それは事実である。しかしそれは他の術師にとって自分たちを貶しているのと同意味である。何せ、自分たちが長い年月をかけて作り上げたものを銃器と同じとしか見ないのだから。
 そのためか、凪宮の名は術師の間では良いイメージが含まれておらず、彼女の名ではほとんどの術師が動きたがらない。これもまた彼女が真紅を頼らなければならない理由の一つだ。

「――――クゥウ……七瀬さん、結界がもう持ちません!!」
「思ったより進行が早い……曖昧な情報をよこしてくれましたねぇ!!」

 しばらく森を歩いてようやくこの状況の原因が存在するところに到着した。
 腐敗臭を含んだ黒く濃い霧のせいで視界が非常に良くないが、それでも大体の状況は見ることができる。そして協会から派遣された術師の特徴も。
 さて、状況はというと。
 この環境を生み出した術師――陰陽術師は何かしらの陣の上に存在する。"開門"を発動している時点で小機であるとは考えていない。行かせるとも思っていない。それでも今はまだ生きているだろう。また彼もしくは彼女の上空には穴が開いており、そこからこの霧や悪魔の類が大量に出現している。その数、数えるのもおこがましいぐらい。
 一方派遣された術師の方はというと、苦戦を強いられているようだ。たった二人で現在生きているという事実が彼らの力量がいかに優れているのかを示しているが、それでももうすぐ限界が来る。何せ穴を閉じるまで無限にわき出る異形を相手に消耗戦を強いられているのだから。

「…………協会の悪口言っているが、いいのか?」
「俺のじゃないから問題ない」
「そんな人だったな。で、どうする? このまま見殺しにするか、それとも助けるか。私としては前者の方が後先楽だが?」
「俺としてもそうしたいんだけどなぁ……あの巫女の方、純白の髪からして神守(カミモリ)の一族、それも秘蔵の白鈴(ハクレイ)だろうなだろうから、見殺しにすると後で報告書が面倒。あそこ、無意味にプライド高いし協会嫌っているから絶対に愚痴ってきやがる」
「――神守……」
「どーした? 顔色優れねーぞ」
「何でもない。ああ、何でもない」
「…………俺は込み入ったことは聞かん。そう言う契約だからそうするが、相談はいつでも受け付けているぜ」
「済まない。心配掛けた」
「とりあえず、今は仕事をこなせ」
「わかっているさ。もとより私はそのためにここにいる」

 懐からタバコを取り出し、咥える。そんなことができるあたり、かなり心に余裕があるように見える――が、真紅はその動作を見た瞬間に顔をしかめた。

「それに陰陽道使っている優男の方、八倉 七瀬(ヤグラ ナナセ)っていうんだが、陰陽道の期待の若手なんて言われているため正直今ここで殺すのは惜しい」
「かといってこのままただで助けるのは気にくわない――だろう?」
「はっ、良くわかっているじゃねえか。というわけであいつらがぎりぎりになるまで待つぞ。もしも形勢逆転して勝利すればそれはそれでよしとする」
「はぁ、私は依頼主の意向に従おう」

 真紅はコートの内側から不可解な紋様の描かれた白黒の面を取り出し、装着する。あの状況下、素人目でも劣勢であるとわかる状態で形勢逆転することはまずない。特に術師間の戦いでははじまる前に勝敗はあらかた決定しているのだ、それこそとんでもない切り札でも用意しない限り、神は微笑むことをしない。
 というより術師の争いで神は微笑まない。女神も微笑まない。悪魔も囁かない。天使は降臨しない。全て己の実力で勝ち取るしかなく、運命を実力で変えて行くしかない。それが、術師というものだ。この世界に入るなら死ぬ覚悟は当たり前、後悔することは一度もなく、侮ることも一度もない。その覚悟なくしては術師なんてやっていられない。やってはならない。そもそもが――術の講師自体が己の限界への挑戦。少しでも迷えばすぐに己の死につながるという行為なのだ。覚悟なくしてどうしてやって行けようか。

「にしてもよぉ、二人だけで来るなんて無謀じゃねぇか? いくら協会の情報が雑だからと言ってそれはないだろうよ」
「ああ、それはだな。途中であいつら残して全員死亡しているからだ。六割は入り口で狂い死に、その時の同士撃ちでさらに二割が減少。それからここに来るまでの悪魔との戦闘であの十人ほどまで減り、核との交戦で二人になった。そもそも陰陽道はともかくとして神道は戦闘に向かん。あちらはどちらかというと穢れを祓うと守りを築くに長けておるからな。ちなみに、ここに来るまでの道中に大量の死体、あったぞ」
「…………通訳」
「他は全員弱いから死んだ。以上」
「あんがと。つまり身の程知らずだったというわけか」

 二人ともひどいいい草である。確かにそれが事実なのだが、敢えて言ってやらないのが優しさだというものだろう。
 え? とどめは私がさした? そんな馬鹿な。死者に何の意思があるというんだい君たちは?
 真紅は胸ポケットから透明な液体(水ではない)を取り出し、飲み干す。その時の表情は非常に優れないもので、同じものを渡された凪宮も同様に決して良いとは言えない表情をした。

「なぁ、これどうにかならないのか?」
「無理言うな。これでも何とか飲めるようにしているんだ」
「はぁ――――甘苦くて酸っぱいのはどうにもなぁ……しかもどろりとしているし」
「効果が良いのが玉に瑕だな」
「全くだ。ああでも、俺は今回飲まねぇぞ」
「む? なぜだ?」
「あいつらの子守しないといけないから」
「ああ……なるほど」

 そんなもの誰でも嫌だ。
 ちなみに今飲んだこの薬はドーピング、体の賦活能力を底上げする効果と興奮作用、そして殺戮欲求を発生させる。当然そんなものには副作用があり、次の日、何に対してもやる気がなくなってしまう。効果に比べたら副作用は非常にかわいい。

「さて、そろそろ征くか」
「そうしよう。さすがにこれ以上は私の精神が持たない」
「ならさっさと逝ってくれ。あんたの相手だけはしたくない」
「承知しているさ。私とお前たちの相性は群を抜いて悪すぎるからな」

 刀の溝に赤い液体を今一度流し込み、真紅は坂を静かに駆け下りる。足が地を踏むたびに赤い何かが地面を染めて行く。その淦はどういうわけか気味が悪く、見ているだけで不快感を感じさせる。

「――残念ですが、貴方にこれ以上の未来はありません」

 戦闘の中心から少し離れた場所に取り残された凪宮は核であっただろう者に宣言する。

「現在はありません。過去はありません。貴方をなす概念、物質、記憶に至る全てはその存在を否定されます。誓いましょう。この日この時この場この言葉を持って、貴方は祓われます」

 まるでそれが決定しているかのように、それが運命であるかのように、揺るぎなきルールであるかのように凪宮は呟く。

「ま、俺には関係ないがな。それじゃ仕事を始めますか」

 右手には持ち手が十字になっており、紅い液体が入ったガラスの瓶を、左手には純銀製の細身の十字剣を持ち、唇を真紅が最も忌み嫌う朱に染め、その顔に獰猛な笑みを浮かべた凪宮――協会直属異端審問官第三位"絶望"を冠した凪宮がそこにいた。警視でもなく、ましてや協会日本支部支部長としてのでもない。ただの、抹殺者としての存在。

「――そこの三流術師、死にたいなら立っていなさい」

「――――へ?」
「――ぬぉう!?」

 巫女と陰陽師の後ろに回った凪宮は右手に持った精密な細工のなされたガラス瓶を悪魔の群れに向けて投げつける。放たれたガラス瓶は流れるように陰陽師の頭をかすめて悪魔の群れへと突っ込んだ。
 それにしても、死にたいのなら立っていなさい、か。死にたくないのならどうすればよいのだろうか。

「――お前たちの血は黒いな……だが、その程度の黒さで私の紅に耐えられると思うなよ」

 ガラス瓶が地面に激突し、割れて中身を辺りに撒き散らすとほぼ同時に真紅も坂を降り切り、悪魔の群れに切り込む。その一振り一振りで悪魔を消滅させていくが、彼もまたその途中で受けた傷によって血を流している。

「よぉ、はじめまして、と言うべきかな? 神守の秘蔵と八倉の神童」
「あ――貴方は凪宮! 協会直属異端審問官第三位ともあろう方がここに何の用ですか!? この仕事は私たちに正式に依頼されたものですよ!」
「ならきっちりかっちりこなせよ。それ以前に俺はあんたらに用事はねぇよ。用があるのは――」

――ズプジュ!

「この奥にいる阿呆にだ。少なくとも顔の原型が戻らなくなるぐらい殴らないと気が済まないんだが、あそこまで行っているとなると殴ったところで意味ないだろうしなぁ……」
「結局のところ、加勢しにきたのですか? あそこで戦われている方と共に? たった二人で?」
「なーんか勘違いしてね? 俺は別にあんたらに加勢しに来たんじゃない。ただあいつを潰しに来たら偶然お前たちがいて、それを見た心優しい俺があんたらに勧告しに来たんだよ」
「ほぉ、たった二人というのは否定しないのですね」
「ああ。てか一人でもよかったかもしれねぇ。あいつ一人でな。というわけで、お前らさっさと帰れ。これから先、お前らを殺さないという保証はないからよ。特にあいつが本気になったらな」
「何を言っているのですか? この状況を彼一人でどうにかできるとでも貴方は保証できるのですか? 無謀ですよ。これは異界と現世を繋ぐ"開門"。その危険性は貴方方協会が良く知っているはずです。ならばここは全員で――」
「ああ、わかっている。"開門"が成功したらどれだけ危険なのか、ていうのは知っている。だがな、それでもあいつ一人さえいりゃどんなことも片がつくんだよ。ただしその場にいる敵味方諸共巻き込むからさっさと逃げろって言っているんだよ。見たとこあんたらは結構消耗している。体力的にもまずいだろう。なら殿は俺がやるからさっさと逃げてくれ。あんたらに死なれるとあんたらの親がうるさいんだ」
「……最後、さらりと本音が漏れましたね……」
「え? マジ? まあ、気にするな。俺は気にしない」
「気にしましょうよ貴方……」

 巫女が張った結界のおかげである一定の範囲内に侵入してくる悪魔の数は少ない。それ以上に前の方で群れと戦っている真紅の存在によるものが大きいだろう。彼一人で大半の敵を食い止めている。いや消滅させている。ただ、その分彼も掠り傷のみであるが、そこかしこに怪我を負っている。
 それから、敵を殺している間の真紅の表情が仮面の下でもわかるほどイイ笑顔です。正直殺戮狂といわれても反論できないどころか肯定しそうなオーラが滲んでいるのを確認できます。血飛沫の中、数多の屍の上、双剣を持って独り舞うその姿は悪魔よりも鬼でした。分類上人間であるというのが非常にあやしいです。

「あ、あの人は一体何なのですか!? どうしてあそこまで戦えるのですか!?」
「さぁ? 俺だってあった時にはあなっているあいつだったんだ。知るわけがねぇよ。そんなことよりもさっさと逃げるぞ。あいつの邪魔になってしまう」
「ですが、いくら彼が強くとも彼一人では――」
「なぁ、あんたあいつが今全力で戦っているように見えるか?」
「――え?」
「あいつは全ての戦いにおいて本気で挑むが、全力で挑むことは滅多にない。特に今は、あいつの家族がいる状況では全力を出すに出せないんだよ。別にあんたらだけなら構わないだろうな。俺だけでもわずかの逡巡で全力を出すだろう。だが、それは他人だからだ。家族がいるとなったら別の話になる。そして、今ここにあいつの家族がいるから全力は出せないんだ。何なら俺一人とこいつらだけで逃げても構わないんだぜ」

「うむ、吾輩としてもそれが望ましい。理解力のない輩は放っておいてもいつか死んでくれるのでな。その何時かが今になるか否かの話でしかない」
「いやクロ、それはだめだってば。えー……と、この人はアレなんだよ」
「む、そうだったな。チ、つまらん」
「むにゅ……」

「…………家族って、この三匹の猫ですか? 猫を家族と言うなんて、その、結構変わった方ですね」
「ふむ、式神の類ですね。いえ、この場合は猫なので式猫でしょう。だとするならばどうして離れるべきなのですか? その行為は武器を捨てることと同じですよ」
「はっ、こいつらは猫だ。少々変わっているが、それでも正真正銘猫(?)だよ。異形を食えても、場を清めれても猫でしかない。猫以上になれない。猫以外になれない。故に決して武器ではない。せいぜい補助的な、いたら都合よくなる存在だ。てかいないとまずいことばかり起こってしまう」

 そう会話している間も真紅は延々と敵を狩り続け、怪我を増やしていく。このまま会話している時間もそんなにもなさそうだ。たとえどれだけ真紅が強くともそれは人としての器の限界を上回ることはない。人としての器を上回ることは不可能だ。故に、いくら彼が強くとも時間と共に劣勢になる。

「ほら、さっさと行くぞお前ら。文句を言うようならこの場で撃ち殺すから」
「……わかりました。ここは貴方に従う方が賢明でしょう」
「ちょ、七瀬さん! あなたは一体何を――!」
「おーおー、命令に従うバカは好きだぜ。無駄に反論するよりずっといい」
「――白鈴!」
「な、何ですか?」
「彼女の方が私たちより彼のことを知っている。そんな彼女が安心して彼に全てを任せているのです。ならばここは引くのが筋でしょう。それに、私もあなたも帰りを考えると限界で、正直唯の荷物にしかなりません。そうなる前に、ここは引くべきです。あなたなら、わかるでしょう?」

「――おーい、さっさと来ないと置いて行くぞー!」

「…………何だか、すごくマイペースな人ですね」
「それだけ彼が強い術師であるということでしょう」

 そういうわけでも、ないのだが。
 本体は真紅のところで足止めされているために思ったよりも早く森から抜け出すことのできた三人は今までいた場所を見てみる。そこには入る時と変わらない言いようのない雰囲気に包まれた森があった。

「――ん……ふぁ、よく寝た……」
「お、起きたのか」
「アオが起きたということは、そろそろ始まるね」
「おお、やっと起きたのかアオ。ということは、ようやっとこの面倒事も終わるな」

 今の今までずっと寝ていたアオが凪宮の腕の中で目を覚ました。そしてまっすぐに森の方を見る。その方向には真紅がいるのだが、蒼の瞳には彼の姿が映っているのだろうか。

「どうしてその猫が起きると終わるのですか?」
「んー……別にあいつにはこのことを話すなとは言われてねーし、まあ教えても契約違反にはならないよな……」

 持ち続けるのも面倒になったので一度アオを地面に下ろす。アオは視線を森の一方向に固定したまま、地面に座った。見た目てこでも動きそうにもない置物だ。
 懐に手を入れ、煙草を取り出し一服する凪宮はアオと同じ方向を見つめたまま、口を開いた。

「こいつらはあいつにとって拘束具みたいなもんなんだよ」
「拘束? 式猫による拘束……どうしてそのようなことをするのですか? そのようなことをしても何の得もないでしょう。むしろ損ばかりのはずですが」
「いやだから、こいつらは式猫なんて言うけったいなもんじゃなくて、ごく普通(?)の猫なんだが……まあいいか」
「良くない! 間違った認識は正しくない効果を生み出すとお主は習わなかったはずであろう!? ならば訂正しろ凪宮!!」
「お前の言う通り、普通であるなら縛る必要はない。むしろ縛るのは損でしかない。だけどな、お前だって習っただろう? 知っているだろう? 人の器に収まりきらないほど強すぎる力は己を殺し、世界を侵すことを。ただあいつの場合は器が大きすぎてその強すぎる力を受け止めきれているんだが、生憎器から零れ落ちる雫までどうこうできるほど鍛えられていない。だからあいつは縛らなければならなかった。拘束しなければ普通の生活を普通に営むことさえ満足に行えないんだよ。別にさ、拘束することが得ではないことを否定するつもりはない。だがな、拘束しないと生きていけない、生きることさえ満足にできない奴がいることをお前が否定する権利は俺は与えない。与えていないだよ。わかれ屑」
「吾輩は無視か……無私なのか……空しいなぁ」

 生憎凪宮に真紅のような特殊聴覚は存在しない。そのため真紅のように音から意思をくみ取ることは不可能なのだ。その辺りのことをクロは理解しているのだが、やはり落ち込んでいる。まあ魚肉ソーセージ一本あれば普通に立ち直るがな。

「唯器から零れ落ちる雫だけで世界を覆すのは先にも後にもあいつ一人だけだろうけどなぁ。てか以前にも以降にもいたら大問題にしかならねぇけど。アハハハッハハハ」
「そんなことが、あり得るのですか? 器から零れ落ちる、本来の何百分の一程度の力で世界を覆すなんてこと。いえ、そのような髪に等しき地からを保有してなお人のままでいられる存在なんて……ありえない……そんなことがあっていいはずがない!!」
「ありえないことなんてない。これは俺たちの間での常識だぜ? 否定すんなよアホウ。まあ普通そんな力はないけどよ、あいつの場合そう言う、破壊することに余りに特化しすぎているからな。とにかく存在するだけで破壊してしまうんだよ。というより祓う? いや祓うなんて甘ったるい次元超えているな……どちらかというとありゃ消滅させるだな」

 煙草の灰が落ちた時、森を覆っていた黒い霧が一気に散り、そして別の何かが中央よりドーム状に覆った。

「…………始まった、か。良く見ておけ。これが俺たちにとって最悪足る存在の最悪と成す力の――――一端だ」

 そのドーム状を一言で言い表すとするならば、この一言以外において存在しないだろう。

 "あかい "

 何がとかどうとか、そういった問題やその程度の話ではない。とにかく紅く、どこまでも赤く、何よりも朱い。
 淦、銅、赧、赫、緋、橙、紫、鮮血…………
 この世のありとあらゆる赤色がそこに存在し、全てが混ざり合い、あまりの強さに黒と思えるほど赤い。赤黒い。黒と思えてもやはり赤。誰がなという王とそれは赤。紅においてほかならない赤。赤を超える朱。朱よりもやはり紅。
 見ているだけでこちらまで滅ぼされてしまいそうな、拒絶されているような、拒絶されてしまいかねない強すぎる原色、むしろ禁断色がそこに存在している。森を覆って、その圧倒的存在感を放っている。

「なに、これ……」
「神道にとって赤とは魔を祓う色。穢れを祓う色。陰陽道にとって赤とは火行、すなわち破壊。魔術にとって赤とは生命に色であり、再生の色であり、破壊の禁断色。三原色とも呼ばれるその色は全ての物に関わりを持ち、それ故に全てに影響を及ぼす。神守特有のアルビノだろうが関係ない」
「あ、あの人は一体何をしたのですか!? いえ、いったい何をすればこのようなことが起こせるのですか!?」
「特に変わったことは何も。強いて言うなら、名を名乗った程度だろうな。陰陽道にとって名を知るとは相手を命を縛るということなんだが、それはつまり相手を受け入れるということだろう? だから人は見知らぬ人と会ったらまず自己紹介をする。己の世界に相手を受け入れるためにな。だが、世の中自己紹介してはならない人もいるんだぜ。例えば、あいつのように強すぎる力を持っている奴。こぼれおちる力でさえ世界に影響力を保有しているんだ。そんなもの、一人で受けたらどうなるかっていうと、手っ取り早く消滅する以外の方法はない」
「化け物……としか呼びようがありませんよ……」
「まさしくその通りだな。神をも祓う力を持つ人なんて、化物以外呼びようがない」

 真紅の買う猫の中にアカと名付けられた猫がいない理由、それを必要としない理由は何も真紅が紅いからではない。存在してはならないからだ。己の力を強めてしまう赤が存在するとせっかくの拘束が意味を失くしてしまう。だから赤を失くしている。
 その緋のせいで家族を失ったことを理解しているために何よりも赤を毛嫌いしている。ならば猫の中に赤い猫がいないのも、赤と名付けられた猫が存在しないのも、家の中に赤いものがほとんどないのも頷ける。己の中の赤を少しでも弱めるために、己の中の赤を嫌うために、赤を拒絶している。ただ、それだけのことである。
 ちなみに真紅は考えている通り、生肉、赤身の魚、紅いパプリカ、トマト、唐辛子が嫌い。理由はもちろん赤いから。子供以上に好き嫌いが激しい人で有名でもある。




 森に残り、またこのアカイドームを形成した真紅に焦点を当てよう。
 時間を戻すことわずか十数分前。
 意外と余裕そうに見える真紅の表情は仮面のせいでわからないが、非常に苦渋に満ちていた。たった一人で無限ともいえる相手をするにはたとえ一騎当千の猛者であろうとも無理。一騎当万でも無理。むしろ体力面での限界をいやおうなく存在させてしまうこの世のありとあらゆる存在であるというのなら、限界がないと書いて無限である敵に勝てるわけがない。良くて足止め。それが限界。一人という名の、限界。
 それゆえにこの状況を完全に覆せれる決定打を打てる状況、家族である猫たちがさっさと安全圏まで移動することを狂う思考の片隅で狂わず望んでいた。猫たちと結んでいるパスと呼ばれる魔力の線で大体の現在地を知ることができる。特に最も強く繋がっているアオと。

「ゲラ――――げらげらげらげら!」

 たぶんこのまま狂い続ければきっと自分は戸惑いなく拘束を開放するだろう。そうなるとまだ安全圏にいない猫たちはすぐに死んでしまう。自分で自分の家族を殺すなんて――全く笑えない状況だ。結果だ。だから、狂う思考の一部がどうしても狂えない。この状況下では狂った方が気持ち的に楽なのに、気分的に気持ちいいのに、どうしても狂い切ることができずにいる。
 まあそんなものでも他社から見れば十分に狂い過ぎているのだが。それはそれ、これはこれ、価値観は人それぞれということで。

「フゥ――――ァア!」

 刀に付着した黒い血はすぐに消えて行く。それは彼らがここにあるはずがない者であるためか、それとも真紅が殺しているからか。詳しいことはいまだにわからない。だが、いくら消滅しようとも刀が血濡れていない時はない。
 戦い続ける真紅の体にはすでに殺した悪魔の数以上の傷が付けられている。痛覚は先のあやしげな薬のおかげで存在していないが、それでも血を消費し続けているために思考がうまくまとまっていない。
 服も破れがひどく、二度と使えないだろう。仮面も半分ほど砕けている。新しく作り直す必要があるだろう。
 術を使えない真紅は傷をいやすことも遠くにいる敵を倒すことも、ましてや自分の手の届く範囲以上に攻撃を加えることもできない。普通の術師にできることができない代わりに、特殊な道具を創ったり、またありとあらゆる"魔"に対して絶対的な攻撃権利を持っている。がしかし、それだけだ。

「――……あ……く、はっ――ははっ」

 ふと、脳裏によぎる懐かしい記憶によって思考を覆う狂気が全て取り払われた。それでも、気分が良い。狂気がなくとも、どういうわけか上機嫌のままだ。いや、理由ならある。本当に単純な理由。久方ぶりに、家族を守るために戦っている。本当にそれだけだった。それだけで十分すぎる理由になり、十分に戦える理由になる。
 地面を蹴っていったん軍勢と距離を取る。刀を握りしめて突き付ける彼の瞳は既に赤黒から朱に変わっていた。

「さて、久しぶりに引けない理由を手に入れているのでな。終わりまで少し付き合ってもらおうか」

 何を思ったのか右腕を切りつける。深く切りつけたので当然のように血が噴きでる。それんなことに興味がないかのように真紅は真紅の血を刀に流し、ただまっすぐ己の敵を睨みつける。

「――まあ、終わりといってももうすぐだがな」

 今の速度であと五分、それもたてば自分にとって守るべき対象たちは安全圏まで逃げ切るだろう。

「後悔する準備はできたか? 神へのお祈りは? 天国に堕ちる決意は? ああ言っておくが、お前たちの帰る方向はそちらじゃない。きっちりかっちり全て、唯一つもとりこぼすことなく、一切合切罪も穢れも許しも含めて祓い、滅す」

 足もとに血の池ができる。その全てが真紅の血だ。白かったコートもいつの間にか黒に近い赤に染まっていた。一歩踏み出すごとに命のしずくが宙を舞う。
 そんな、自分の体に危機感を覚えた様子もなく、真紅は最初と変わらない動きで軍勢に再び斬り込んで行った。ただ、今までと違うことは明らかに自分の手が、刀の切っ先が届かない所にいるあくまに対しても一撃必殺が意味をなしている点だ。もしかすると、彼の血が魔に対する絶対的な殺害権利を持っているのかもしれない。

「クハ――ハハハッ」

 一つ、二つ、三つが四つ。八つへと別れて十六に至れ。

 真紅が刀を振るたびに黒い存在、俗称悪魔が何もなかったかのように消滅していく。真紅が攻撃を受けるたびに血飛沫が空を舞い、悪魔たちが何もなかったかのように消滅していく。
 後ろからはこちらの事情を知らない同胞――悪魔が押し寄せてきている。そのため今ここにいる悪魔は前に進むことしかできない。
 屍は全て消滅していっているため、死体で足を躓くということも血でぬかるんだ地面で足を滑らせるということもない。かすっただけで消滅させていっているためにはこぼれの心配もない。とことん卑怯性能を発揮している真紅がそこにいる。何も狂っていないにもかかわらず、狂い切ってしまっている化け物よりなお化け物と呼ばれて問題ない存在が。

 一度刀を振れば十の屍が生み出され、百の血が流れれば千の存在が消滅する。万の数を繰替えせばいつしか億に届き、兆を凌駕し、無限を超越することを望んで、唯彼は一人一を延々と繰り返していく。

「――さぁ、お開きの時間だ」

 あたりに己の血を撒き散らし、敵を一掃した時彼は言った。ちょうどその時、守るべきものが森の外まで出て行ったのを感覚で理解した。

「――――告げる」

 世界が、震えた。本能的に極上の危険を感知した存在は己の生存のために真紅に殺到するが、それも二歩遅い。何せ、この行為はただ言うだけでいい。それだけで始まり、それだけで終わるのだから。

「――我が名は

 ――緋宮 真紅

 ――己が全てに朱色を宿し者也」

 ただこれだけの言葉で全てが始まりを終えた。黒い霧が発生源から血のような濃密な赤に変色し、真紅を取り囲んでいた存在が全て緋色の水晶となって砕け散る。

「――偽名だけどな」

 髪が揺らめき、服がはためき、瞳が余すことなく対象を定める。手に持つ刀が消滅していく。身にまとった数々の術具、呪具が音もなく砕け散る。体内を流れる魔術の薬が消滅し、体に痛みが走る。

「そこ、か。面倒な仕事だよ全く。何故私が人をやめた者の後始末をしなければならない? 己の尻は己で拭けというのに……まあ、これで食って生きる私の言うことではないがな」

 懐からごく普通の、大量生産されているナイフを取り出す。機械によって作られているため、人の手によって作られるよりも真紅の行き過ぎた祓いに耐性があるそうだ。
 それを彼は、自我意識も失い、人の道から外れた存在に向かって投げた。

「…………終わり」

 ナイフが刺さり、この発生源ごと消滅し、作られ開かれた門も消滅したことを確認したのち、森の外を目指す。その足は非常に拙い。出血量がひどくて意識がもうろうとしている。それでも彼はただ只管に森の外を目指した。





「…………よぉ、御苦労さま」

 そんなアカとしか言いようの無いドームは物の約二十分で消滅し、それと同時に真紅も出てきた。利き腕である右腕に裂傷があり、血を今もダクダクと流しているのはいつもの光景だ。幾ら真紅の器が大きく、世界を覆し、神をも祓う力があろうとも真紅の体は所詮人間のそれ。強大な力によって内側から決壊するのは至極当たり前だった。それでも、あり得ないほど軽い傷だが。

「……疲れた。二度とこんな仕事回させるなよ……? 割に会わない」
「その辺はよのバカどもに行ってくれ。俺の知ったことじゃない。まあ後で仕事代は払うから安心して今は寝ろ」
「おー、お休みー」
「……とにかく止血だな。それから病院の手配と……はぁ、俺の小遣いが……後でがっつり請求してやろ」
「やっほーい。今晩は豪華に刺身盛り合わせ特上だ。食うぞー。しこたま喰ってやるからなぁ!! 凪宮、築地市場に電話しろ。最高の生の本マグロ一本丸ごと買うとな!」
「……なぁ、こいつなんて言っているんだ?」
「……くー……」
「寝てるし……まあいいか。どうせ下らないことだろうしな」
「そ、そんな……吾輩の夢が……吾輩の努力がぁぁぁあああ!! ――――水の泡か……」
「クロ、そもそも真紅は"夕食は豪華かもな"といっても刺身を出すなんて言っていないよ。それに、真紅は赤嫌いだからマグロは買わないと思うよ」
「ノォォォオオオ!!」
「それにクロはダイエット中だよ……」
「ぐふっ……わ、わ吾輩、もうダメかも……」

 乗ってきたベンツから医療キットを取り出して応急処置をしていく凪宮の手つきは非常に手慣れたもので、協会から派遣された二人の術師は何が何だか理解できずにただ立ち尽くしていた。

「あーそうそう、お前ら」
「は、な、何です?」
「こいつのこと誰にも言うなよ? マジで俺が殺されるから。もちろんお前らも。てかこの世界全ての生物が消滅させられる。ただ名乗るだけであれなのに、全力でこの世を祓おうとすればどうなるか……バカじゃない限り理解できるだろ?」
「わかりました……ですがただで秘密にするには割に合いません。少し条件をつけてもよろしいですか?」
「……物によるな。言ってみろ」
「その前に少し訪ねたいことがあります。それ次第では条件を変えなければなりませんから」
「ん、ま、そりゃそうだな。いいぜ。答える答えないは俺の自由だ。同様に聞く聞かないのもお前たちの自由だからな。言ってみろよ」
「彼は普段何をなさっているのですか?」
「んー……クリエイター? この銃の弾丸とか、そういったものを作ってもらっている。つってもそんなこと知ったの俺で、秘匿したのも俺だから、顧客は俺と俺の知り合いぐらいだけどな」

 きつめに肩を縛る。本来なら消毒する必要があるのだが、生憎雑菌なんて生きていられないほどひどい血なので真紅に限って消毒する必要はない。そのおかげで彼は怪我以外で入院に行ったことも病院に行ったことすらない。

「ふむ…………」
「どうしたのですか? 七瀬さん。すごく難しい顔して悩んで。似合いませんよ」
「あなたは黙っていてください。気が散ります」
「へみゅう……」
「私たちも顧客になって良いですか?」
「それはこいつに頼め。俺は知らん。といっても今どうこうできるわけじゃないし……そうだな、目を覚ました時に話通しておいてやるよ。それで色よい返事がもらえたらお前らに伝えてやる。それでいいだろ?」
「ええ、構いません。私の出す条件はそれだけですが……白鈴は何かありますか?」
「私は……一つ、その方の名前を教えてくれませんか?」
「緋宮 真紅。そうはいっても本人も認める偽名だ。俺もそれしか知らねえし、本名は知りたくもない」
「そう、ですか……」
「もうないなら俺は行くぜ。そろそろ輸血が必要になるからな」
「いやもう言っているじゃないですか現在進行形で。何その事後承諾的なやり方? ああ、それでも有名でしたね」

 腹に響く重低音を鳴り響かせて凪宮と真紅+猫三匹を乗せた車は夕日の反対側に向かって走り出している。

「……私たちも帰りましょうか。これ以上ここにいる必要はありませんし」
「そう、ですね」
「おや? もしかしてあの人に興味があるのですか? まあそれはそうでしょうね。あんなにも強大な力を持ちながら自己を保てている人が味方に付けば、それこそ世界征服だろうと可能になる」
「……そういうことにしておいてください」

 その場に残された二人も自分たちのいるべき場所へと戻っていく。

「――ん、っあ……」
「お、お早いお目覚めだな。もう少ししたら生き付けの病院に着くから安心しろ」
「おー……」
「おいおい、無理に動くなよ。いくら腱や神経、主要血管に傷が言っていないといってもお前のそれはひどい怪我なんだぜ? それこそ失血死してもおかしくないぐらいによ。今は造血剤やらなんやら打ちこんで死なない程度になっているといっても、下手に動けば傷がまた開いて血が出ちまう。生憎これ以上の造血剤は持っていないんだぞ」
「自分の体のことは、自分が良くわかっているから、大丈夫だ……」
「はぁ。限界の線引きがわかっているから無茶できるといっても、お前の場合は無茶しすぎだよ。わかりすぎるのもまた問題だねぇ……」
「気にするな……」
「ところでこれ独り言なんだが、お前の本名って何だ?」
「おい、それは契約――」
「独り言にいちいち反応するなよ」
「そうか……」
「聞く必要もなかったし、興味もなかったんだが、ちょっと知りたくなってな」
「…………はぁ、独り言だから、聞き流せ」

 燃えるような橙に染まった空を見上げる真紅の瞳はいつものようにつまらなそうに外界を写している。

「私は昔、この力を忌み嫌い、己に降りかかることを恐れた両親に捨てられた。何せ私は、認められない存在だから。どこまでも純白、白にして白の一族に生まれた唯一の朱だから、この紅で一族が誇る無意味な白が染まるのを嫌ったんだろう。白は、美しいが染まりやすいからな。だからと言って殺すこともできない。切れば血で染まり、殺せば黒で染まるから。だからありとあらゆる縁を切ったんだ。その時、私も名という縁を切り捨てた。それ以来、"俺"は私となり、護るべき神を殺してしまうほどの神の朱と名付けられた赤はただの緋色に染まった宮の真紅に墜ちた。古い話だよ。下らない話だ」
「…………何かすっごい独り言だな。爆弾発言だぞそれ」
「昔の話だ。今の私は"俺"じゃない。今さら斬った縁を元に戻すことはできない。あの頃はまだ縁を斬れるほど不安定だったが、今の私は繋ぐと染まるどころか排他されるほど朱を孕んでいるから」
「戻れるなら戻りたいか?」
「まさか。捨てられた当時ならそう願うかもしれないが、今は違う。今は、この生活が気に入っているからな」
「そっか。なら安心した。今後も利用できるぜ」
「…………はぁ、せめてつけはきっちり耳揃えて払ってくれよ」
「今日は飲むぞぉ!」
「死ぬほど喰うぞ!!」
「…………聞けよお前ら。そして払えよお前ら」
「無駄だよ真紅。この人たちは自分に忠実だから」
「へみゅ……鰆〜」
「今の時期はふぐちりだな……」
「お、いいねぇ。ふぐ尽くしで熱燗としゃれこむか。よし、そうと決まればどこがいいかな〜?」
「……高速で、しかも時速320km出して携帯弄るなよ……何よりまず病院行かせろよ」

 真紅の現実的なつぶやきは虚空に消える。うんざりしているように見えるが、彼の口は微かに緩んでいた。



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