第一話
「逢魔ヶ刻に」


<3>



 予想通りしばらくして感覚が戻り始めた。まずはっきりしなかったものがはっきりし始め、次に肉体、五感といった具合に。私の場合は聴覚から戻り始めた。このあたりは個人差があるため、例外なくとはいえない。
 そして触覚が戻り、肌に乾いた風と冷たい石の感触がした。材質は大理石、だと思う。滑らかで、少なくとも良い石であることは間違いない。それと乾いた風から推測するにここは地下ではないようだ。というよりどこかの屋上である。それもかなり高いところだ。なぜなら気圧が低い。異世界なので推測だが、あながち間違いではないだろう。焦げ臭さもない。つまり火も焚いていない。
 少し離れた所から人の呟く声が聞こえる。数は十人、いや他にもいる。二十人だ。視界がおぼろげではあるが、戻ってきた。隣には陽光が伏せている。気絶しているだけのようだ。命に別状はなさそうである。
 周りを見回すと多くの人が私を指さしたり、しきりに何かを言ったりしている。言葉は問題なくわかる。私が付いてきたことに驚いているのだろう。このような召喚術はたいてい対象が一人で、巻き添えはない。その辺はセオリーというものだ。ただし壊せないことはない。
 とりあえず読み書きの確認をしないといけないな、何て気楽なことを考える余裕はあるようだ。
「どういうことだ? 聖約では一人のはずではないのか?」
「いや、これはこれで都合がよい」
「あの黒いほうは誰だ? 気味が悪くてかなわない」
 陽光の髪は明るい茶色だ。もちろん地毛である。よって私のことだろう。
 私は殴りたくなる衝動を抑えつつ、陽光の現状を詳しく確認した。今のは世界間跳躍だ。副作用として何があるのかわからない。それから静かに気付かれないように、昔鍛えた技術を駆使してその場を後にする。こんなところにいても何の利も生まれはしないことを早々と悟らせていただいた。それにしても変わったのは景色と文化のみか。下らない。
 時は夕暮れ、逢魔ヶ刻。夕日で空は紅くなっている。今私たちは白い石の祭壇にいる。何故か山の頂上に建造されている。作るのに苦労しただろうに。四方には神像らしきものが飾られている。当然のことながら天井はない。
 それにしてもこれを作るために何人の命が犠牲になったのか、陽光が知ったなら発狂するだろう。眠っていてくれて助かる。ただでさえ少なくとも十六人を生贄にしてあるのだ。私には自殺行為にしか見えない。ああ、彼の恐ろしさを知らない彼らには仕方のないことか、と納得する。もし今ここで彼が目覚めたらたぶん彼は自殺する。それを止めるには苦労するのだ。
 陽光を担ぎあげ、階段を降りはじめた。無駄に長い。さらには急勾配と壊したくなるような設計だ。責任者を殴らせろ。
「何か、用か」
 私は階段を上っている女性に尋ねた。階段をふさぐように立てられたら誰でもそう問うだろう。
 彼女には人の遺伝子ではありえなさそうな、人以外の何かの力が関与したと思われる白ではなく、少し灰色がかった銀髪、蒼穹の蒼を切り取ったかのような瞳をしている。一般論でいう美女がそこにいる。
 彼女が、私は見たことがない生地でできた、かなり動きにくそうなドレスを着ていることが私に未だ見ぬ世界にいるのだということを実感させた。
「あなた方は誰ですか?」
「俺が誰か、か? そんなことは誰にもわからないな」
「質問を変えましょう」
 彼女は私をにらんだ。そんな気がする。もう嫌われたようだ。
「あなたの名前は何ですか?」
 私は小さなため息をついた。この娘には一度礼節というものを教えたほうが良い。
「……何です?」
「ああ、気分を害したなら謝ろう。何分"他人に名を訪ねる時はまず己から名乗る"のが礼儀と俺のいたところではあったのでな。ここでは違うようだ……」
 今までそんな所を見たことがないが、郷に入れば郷に習うとあるのでそれに従おう。
 ――となるわけがなかろう。
 私は彼女を侮蔑する目つきで見下した。このとき立ち位置が上であるというのは良い。効果が上がる。
「ふむ、邪魔だな」
 いつまでも担いでおく義理などあるわけもないので私は荷物を横に置いた。
「こちらでもそのような最低限の礼儀はあると思ったのだが……無礼な人だと思った」
 ないわけがなかろうに。社会が形成される世界の礼儀などそう大して変わらない。確かに文明の違いで変わらないといけないような箇所はあるが、根本的なところでは大差ない。
 陽光はまだ眠ったままである。このまま当分目覚めないでほしい。そう、私が問題ないと考える場所に行くまで。ここはまだ祭壇に近いのでかなりまずい。
「…………ここでもあります」
 私が聞こえるか聞こえないかの音量で呟いていた、この世界に対する軽い罵詈雑言にさっそく彼女は音を上げた。もう少しで神々を侮蔑し始める良いところなのだが、この世界は信心深い愚者ばかりなのだろうか。可能性はある。
「なんだ、やはり礼儀知らずか」
「そのあたりに関しては訂正してもらいたいです。予言では一人とあったのに二人もいらっしゃるので、いささか困惑し、礼儀を忘れてしまっただけです」
 言い訳、か。それを礼儀知らずというのだ。本当に礼節が身につけている人はどんな時でも忘れたりはしない、できない。それが癖になっているからだ。
「わたくしは、エリュシオン・レイナ・ゼノン・レーヴェリヒトです」
「……無駄に長いな、その名は」
 きっと彼女は王族かかなりの権力のある地位についている誰かの娘なのだろう。故にこんなにも長い名前を持ち合わせている。発音と順番から考えてレイナは洗礼名ないしは母親の名前。ゼノンは父親の名前か第何子かを示す名、レーヴェリヒトは国名だろう。最後に、エリュシオンは明らかに名である。
「面倒だ。今後から貴様のことをエルと呼ぶ」
「……え?」
 反論はしてもよいが、これは決定事項なので揺るがない。私の予想が正しければ彼女の名をすべて言うとさらに長い。名前には束縛の力があるため割と短縮して言うことが良くある。ただ本人がそれを知るかはまた別の話だ。
「俺の名はリヒト。こいつの名はこいつが起きてからこいつに聞け」
「なぜですか?」
「当然、自己紹介は自分でするものだろう?」
 さて何から聞いて、何を話すか。考えていることに入るのだが、そう簡単には洩らしそうにない眼をしているので厄介だ。嘘かどうかは見ていればわかるのでいいが、事実かどうかまではわかりもしない。さてどうしたものか。

 
 
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