第五話
「それが地獄」


<3>



「…………」

 だからその視線がうっとうしいというのだ。蚊のように煩いくせしてまともに渡り合える力も持たない。そんな矮小かつ脆弱な存在の行動は本当に私の神経を刺激してくれる。
「――……何をした?」
「見てわからないのか? さっきからその視線がうっとうしいんだ。そこまで睨まなかったなら、何もしなかったのだが……少しは礼節をわきまえろ。まさか誰かを睨むのが貴様の教わった礼儀か? ハッ、下らん」
 ドゥアンの手にはコーヒースプーンが握られている。私がルージュに向けて投げたものだ。そこは付き人、身辺警護をするものだ。なかなか反応が早い。が遅い。
「ルージュ様に危害を加えるものはたとえ誰であろうとも生かして置けません。今のうちにご自信の非礼をわびるならまだ許してあげましょう」
「ほぉ、面白い事を言うな。まるで俺に勝てるような物言いじゃないか。それに何だという? 貴様ごときの下等かつ矮小、下劣かつ脆弱な存在に許しを乞わなければならないほどこの身が落ちぶれた覚えはない」
「ギリッ――……ルージュ様、この場を汚すことをお許しください」
 そんなにも食いしばったら歯が砕けるぞ。意やそれはそれで面白いのだが。
「その愛しのルージュ様とやらに"場所を考えろ"と躾けられなかったのか?」
 ドゥアンの剣を抜こうとした右腕の秘穴を押さえ、それ以上動かせなくする。人体の秘穴などを私が知らないわけがない。またこの行動も理解しやすかった。
「剣を抜いたら主に俺の迷惑になるだろうが。それぐらいわかれ」
 個人尊重万歳! 自己中心的のどこが悪い!?
「そうですよドゥアン。お茶の席ぐらい礼節を重んじ、静かになさい。それと私は彼を殺すことを許した覚えはありませんわ」
 私の言葉よりも飼い主の言葉の方が効いた。忠実かつ愚劣なイヌ(決して狗に非ず)を彷彿させる光景だ。それよりも先ほど一瞬だけ感じた殺気にも似つかない敵意のこもった気配は何だったのだろうか。
 彼の殺気が和らいだので肩から指を離す。視線においても外してもらいたいところだ。別に何もしないというのに。
「事の原因は絶対にリヒトにありますね」
「――……」
「イタッ! ――何をするのですかぁ!?」
「いや、そのバカな思考も叩けば治るかと思ったのだが……」
 アナログな電子機器も斜め45度で叩けば使えるようになる。それと同じであると考えた私は彼女の額を平手で、手の甲で打ち抜いた。本当は後頭部を叩きたかったのだが、それをすると机がひっくり返るのは目に見えている事象なのでやめておいた。
「いいかバカ。この世に絶対などない」
「だからと言って人を叩くことは必要はあったのですかっ!?」
「さあ? あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。それは誰にもわからない」
「……殺したいです。今すぐ彼をこの世から殺したいです……」
 フォークが粘土のように曲がった。その白く貧相な腕にしては意外とある握力だ。それよりも少しは物を大切にしないのだろうか。そんな感性を彼女に問いただしたくなる。
「それ、お前が弁償しろよ」
「はい? ……あ」
 口元を押さえて顔を赤らめる。その動作だけは乙女であると認めてやってもいい。中身は全く違うが。それにしても気づいていなかったのか? 自分が何をしているのかすら。
 この店のマスターがこちらの方を微笑みの仮面をかぶって見ている。その視線がかなり穏やかなものなので割と何を考えているのか読みにくい。少しは怒気をいうものを含めてもらいたいところだ。そう考えつつ、私はアップルパイを食べようとした。
「――……おいエル。貴様何勝手に俺のものを食べている?」
「淑女をバカにした罪です。安いものでしょう?」
 ここのケーキは万人が認めるほど美味である。その上私はこのような時間をこよなく好んでいるために、陽光曰く、こういうときのリヒトの食の恨みは彼の不動明王すらも形振り構わず進んで逃げたがるほどである。故に彼女の行ったあの行為は、たかがそれの値段の高い安いに関係なく、いとも容易く私を沸点に達せさせたのだった。

 椅子の横にある箱の中にあるアークを右手に召喚し、疑似融合そして魔力を収束させる。無詠唱で"装雷"を発動。この間たったの0.0000241秒。すげ。
「知っているか? 食の恨みは値段のそれに拘らず奈落の底よりも深いということを……」
 辺りの温度が瞬間的に下がり、水蒸気が凝結して霧のようになる。まるで大量のドライアイスを大量の水の中に入れてるようだ。
「奈落とは何で……――ヒッ!」
 エリュシオンの動きが止まった。どうしてそうなったのか見当はつくがそんなことはどうでもいい。アークは使い手の資質によってその力を左右させる。もしも使い手の魔力収束力、圧縮率等の言った制御力、そして何より魔力量が高いなら当然アークの威力も上がる。その逆も然り。
 それがアークに刻み込まれた特殊刻印、“疑似融合”による疑似魔力回路形成の性質だ。なぜ疑似融合なのかというと、完全に融合はしないからだ。完全に融合したら二度と切り離せないだろうが。
 そんなことはどうでもよい。今の私はイイぐらいに腹に来させられたため、アークにこの身に微塵も残させないほど魔力を注ぎ込んだ。
「――刹那の刻に狂い謳え――」
――ギュゴン
「……リヒト様」
「……あ゙あ゙?」
 急にルージュに呼び止められた。そういうわけで祝詞を中断し、そちらを見る。思考はやめない。
「ここでそんな攻撃をしたらこの店は壊れますよね?」
「そんなことはどーでもいい」
「この店が壊れたら二度とここのケーキを食べられなくなりますわよ。それでもよろしいですの?」
「――……それもそうか」
 今ここでエリュシオンを治療院のベッドにくくりつけるよりも、そちらの方が損害が大きいと私の心が判断した。アークに注ぎ、精製し、圧縮し、収束させた魔力を霧散させる。
 ついでに"装雷"の方も解呪しておく。それらを行いつつ、殺気の方も消した。そうするとエリュシオンはゆっくりと長い吐息と共に何かを吐き出した。何かは物質ではない。
 それから後ろの方でかすかに聞こえたのだが、ここのマスターも安堵のため息を吐いていた。
「マスター、アップルパイをもう一つ。それと紅茶のお代わり」
「私にも紅茶をいただけます?」
 ちなみにマスターはカウンターの下に隠れていた。今更ふと気づいたことだが、左腕がある程度使えるぐらいにまで回復している。あとは本格的に使えるようになるまでと、それから傷痕だ。この傷痕は対処できるのでどうでもよいが。それに医師の診断では傷跡もなくなるとのことだ。
「ルージュ様、お助けくださいましてありがとうございます」
「どういたしまして。それはそうとエリュシオン様。一つよろしいかしら?」
「ええ、何でしょうか?」
「淑女は決して無断で人のものを盗んではなりません」
「……はい」
 ルージュのシャドウに般若が見えた気がした。ガクブルっているドゥアンがいる。
 ルージュがかなり怒っていることが手に取るように分かる。顔は微笑んでおり、先ほどとなんら変わりはない。しかしそうは感じさせない何かをひしひしと感じる。見た目だけでは分かりにくいが、直視してみるとよい。かなり怒っているから。直視するのは進めれない行為だが。なぜか寒気を感じる。本当になぜだろう。とても面倒なことが起こりそうだ。

 
 
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