第九話
「異能、発動 前編」

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 それにしても、とエリュシオンは呟いた。
 彼女の手前には淹れたばかりの紅茶が湯気を発している。ああ、私もほしくなった。主に他ならぬ私の精神安定のために。
「どうして彼はここに来たのでしょう」
 彼――ここではリヒトのことであろう。もちろん理由を知っているが、そんなことを言えるわけがない。もしも言えるといった奴、人間やり直すのはもう手遅れだぞ。生命体を気取るのも無理があるような気しかしない。
 そういうわけで私は適当に音を並べた。
「たぶん……この先にある書庫にでも用があったのではないでしょうか?」
「そこはあの人の部屋のすぐ近くでしょう? わざわざこちらに来る必要はないはずです」
 その部屋は初期の部屋だ。今使っている部屋は意外と書庫にも遠く、城の各要所からも離れている。もちろんそんなことを誰かに言った覚えはなく、してはいないと思うが、陽光も軽々しく話してはいないはずだ。
 また私は自室に使用人を近づけることもないので、結果的にこの国の主要人物以外今現在使っている私の部屋の場所を知らない。隠し部屋の方は、話す時点で目的に背いているだろう。そういうわけで私はこのことを言えずにいた。
「彼は毎朝練兵場の方で鍛錬をしていると聞きます。きっとそれの帰りだったのでしょうよ」
「そう、なのでしょうか……」
「エリュシオン様は一体どうであってほしかったのですか?」
「どうあってほしかった、ですか?
 わたくしは――わたくしは、どうあってほしかったのでしょうか?」
 質問者に聞くなよ。ただでさえ彼女の思考は読み取りづらいんだ。私にわかるわけがないだろうが。ああ、勿論感情の隆起は読み取りやすい。それとあれとは別のものだ。まあいいや。
「来てほしくなかったのですか?」
「……わかりません」
「まあ、そうでしょうね。ならそういうことでいいじゃないですか。別に万象のことに理由がなくとも、判断がつかなくとも構わないでしょう? それが起こった、その事実さえあれば」
「彼と、リヒトと似たようなことを言うのですね」
「……そうでしょうか?」
 私が私なのだから似たようなではなく同じことだ。そのことに気づいていたら本当にまずい。だが、ここまで気付けないのもまた妙である。いや、こんなものであっただろうか。
 近頃妙に記憶がはっきりしていない。知識の方は問題ないのだが、どうしてだろう。記憶障害の類にはなっていないはずだ。はっきりしなくなる理由に心当たりは全くない。いや、それもまた一興か。
「ええ、そうなのでしょうね。すべてをはっきりさせる必要なないですね」
「それはそうと、わたくしはリヒト様との付き合いが短いのでわからないのですが、あの方はいつもあのようなのですか?」
「ええ、いつもあのように現実――いえ起こりうる全ての事象に興味がなさそうです」
 ああ、彼女は私をそういうふうに見ているのか。起こりうる事象のすべてに興味がないわけでない。今現在興味を持てる事象が一つもないだけである。私にだって興味のあることはある。魔法や武芸といった暇つぶしにもならない俗世のことではなく、ただ"私"という存在の願いにおけるものだが。その願いをかなえるために今の私はただ動いている。
「…………」
「どうかなさいましたの? 難しい顔をしていますわよ」
「いえ、ただあの人は……戯れごとです、気にしないでください」
「そう言われると一層気になりますね。クロノア、レーヴェ国第一王女エリュシオンが命じます。話しなさい」
 なんて強権発動。その面白そうなもの見つけた顔はさっさとやめろ。手から血が出る。
「……戯言ですよ?」
「構いません。わたくしが聞きたくなったのですから」
「……真に受けないでくださいね」
「じれったいですね。ほら早く話しなさいな」
 もちろんその時に考えていたことを話すわけはない。そんなことをしてみたら即刻洒落にならないことが起こる。私にとっては傾国の方がまだましなこと。
「私は、リヒト様をどこかで見たような気がするのです。それもここ最近ではなく十年以上前、この国で」
「――彼らは旅人ですから、きっと旅路の途中にあったのではないですか?」
 一応私たちのここに来る前の扱いはそれになっている。ただ、その嘘をついている時の彼女の目が虚空を向いているので、それが嘘であることを語っているようなものなのだ。
 全く、嘘が苦手ならいっそのことしゃべるなと言いたい。だからと言って今ここでそんなことを言えばほぼ間違いなくよろしくないことが起こるので口を慎んでおく。
「そうなのでしょうかね?」
「えと、たぶん」
 はいダウト。思い切り内心だけで突っ込んでおく。本当に彼女は天然というか純朴というか、簡単に言ってしまえは天真爛漫なアホだ。知能に回すための栄養を別のところに回しているんじゃないよな? いや……あー……それほどじゃないか。
「…………(ジー」
「………………ケーキのお代わりですか? 肥りますよ?」
「違います! それもありますが……それよりも、今失礼なことを思いませんでしたか?」
 チ、無駄にそういう勘だけは冴えわたりやがって。シャルルがいい例だが、近頃の女性はそう言ったスキルを重点的に鍛える習性があるようだ。どうせ今ごろ陽光が発狂しかけているのだろうな。なんとなく思っただけで異様にリアルな光景が想像できた。
「んー、心当たりがありませんね」
「そうですか。それならいいのですが……」
「ところで、ケーキはどうしましょうか?」
「あ、う」
 いま彼女の中で主に食欲である本能とこれ以上食べたら肥るという警告を発する理性か何かが激しくせめぎ合っているのを感じる。今日の朝のデザートはティエリアーゼ特製アップルパイ。何もかもが完璧と言える至高のデザートである。
 この機を逃せば次の機会はいつになることやら、そう考えると食べることが正解なのだが、それは肥ることも痩せることもできない私にだけ言えることだ。一般人である彼女にそれが適用できるわけがない。
 そういうわけで今現在の彼女の心境は手に取るように分かる。というか、フォークを持ってケーキに伸びる右手を左手が必死に抑えるというその光景は非常に滑稽だ。柱の陰で彼女に微かに見えるように隠れ、笑っていることがわかる程度に忍び笑いがしたい。
 だが残念なことに今の私はそれができない。故に現在微笑んで彼女の動向を然りと見ている。さて、食欲が勝つか、それともあるかもしれない望み薄な女性としての理性が勝つか、これは見ものだな。
 などと不謹慎(?)なことを考えていたらギロリと彼女に睨まれた。どうしてこうも勘が鋭いんだろうか。ちょっとその辺を調べてみたいのだが、女性の神秘として片付けた方が気が楽なんだろうなぁ……
 ちなみに結果は聞くまでもないだろうが。

 
 
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